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三年経ってもおいしい非常食「パンの缶詰」を作ったのは、栃木県にある町のパン屋さん。きっかけは、阪神・淡路大震災の被災者からの声ですが、どうやってこの缶詰を開発し、多くの人に届けられるようになったのでしょうか?
世界を救うパンの缶詰
あきらめなければ、それは失敗じゃない。でも、あきらめれば失敗になってしまう!
目次
1 パンの缶詰、宇宙に行く
2 パンの缶詰ものがたり
3 パン屋のバトンを受け継いで
4 世界にパンを届ける「救缶鳥プロジェクト」
5 笑って楽しく仕事を続けよう
「缶パンのように長期保存ができる、やわらかくて、おいしいパンはありませんか?」
被災地の人たちの声を聞いた秋元さんは、パン屋のかたすみで、100回以上実験を繰り返しました。あきらめない心が生み出した「奇跡のパンの缶詰」
1 パンの缶詰、宇宙に行く
世界に届けられる、缶詰入りのふわふわパン
見た目はなんのヘンテツもない縦長の缶詰。手に取ったら、意外なほど軽く持ち上がります。重さは百グラム。同じサイズの缶詰に比べると四分の一と軽く感じます。
缶詰の中には、どんなパンが入っているんだろう。まるいパンがコロコロ入っているのかな。開けたらムクムク膨らんできたりするのかな。
想像しながら缶を開けてみると、パンは、薄い紙に包まれて、缶の中にすきまなくふくらんでいました。焼きたてみたいないい香り。紙ごとギュッと持ち上げて包みを開くと、缶の形そのままの円柱形のパンが出てきます。ちぎるとしっとりしていて、口に入れるとふんわりやわらかい甘い香りが広がって、「おいしい!」パクパク食べれます。
普通のパンは一週間もすればカビが生えたり、乾燥して固くなったりするのが当たり前です。それなのに、こんなにやわらかくてふわふわのままで、二年も保存ができるなんて驚きました。
このパンの缶詰を思いつき、研究し、発明したのは、栃木県那須塩原市にある「パン・アキモト」の社長で、パン職人の秋元義彦さんです。
パンの缶詰は、東日本大震災や熊本地震の被災地で役立ちましたが、活躍の場は世界中の災害現場や、飢餓に苦しむ地域にも届けられ、多くの人のおなかを満たしているのです。
パンの缶詰が広く知られるようになったのは、二00四年に起きた新潟県中越地震でした。支援のために届けたパンの缶詰を、被災した人たちが食べている様子がテレビで映し出されたため、大きな注目を浴びたのです。
その後、宇宙飛行士の若田光一さんが、宇宙食としてスペースシャトル「ディスカバリー号」に乗せて、宇宙へ持って行ったことで、さらに多くの人に知られるようになリました。
宇宙ステーションの小さな船内で、食事をする若田さんが映し出されて、さりげなく取り出したのがパンの缶詰でした。重力のない船内に、缶詰がふわりと浮かび、
「これはカンブレッド(缶入りのパン)だよ。宇宙ステーションのパンなんだ」若田さんは笑いながらキャッチしました。
2 パンの缶詰ものがたり
きっかけは阪神・淡路大震災
パンの缶詰が生まれたきっかけは、一九九五年一月十七に起きた阪神・淡路大震災でした。この日の早朝、兵庫県淡路島を震源としたマグニチュード7、3の大地震が起き、神戸市を中心に大きな被害が広がったのです。秋元さんは、ニュースを見て大きなショックを受けました。
「自分たちにできることは何だろう」と考えて、自分たちにまずできるのは、パンを焼いて現地に送ること。そう考えた秋元さんたちは、すぐに会社のトラックいっぱい、二千個の焼きたてパンを送りました。ところがその数日後、現地の人から連絡が入ります。
「秋元さん、おいしいパンをありがとう。でも半分以上のパンが食べられなくて、捨てられてしまったんです。本当に申し訳ない。」その人は語りました。自分の作ったパンが捨てられるほど、職人としてがっかりすることはありません。
「被災して、満足に食べ物もない人たちに、おいしいパンを食べてほしい」と、必死の思いで届けたからこそ、秋元さんには悔しさが残りました。
それからしばらくして、被災地から電話がかかってきました。
「乾パンのように保存性があって、秋元さんに送ってもらったようなやわらかいパンはありませんか」乾パンは固く焼しめられ乾燥して、固すぎてかじるのに力が必要です。当時は非常食と言えば、乾パンは一番に名前が上がるものでした。「やわらかくて保存ができるパンはないですね」被災地からの電話に秋元さんが言うと、思いがけない答えが返ってきました。
「なければ、あなたが作ってよ」の言葉に秋元さんの気持ちも変化して行きました。
「おいしくて、やわらかくて、保存のできるパン作り。これは、パン屋としてのぼくのミッション(自分の使命、果たすべき仕事)かもしれない」人生をかけて果たすべき仕事に、このとき秋元さんは出会ったのでした。
実験と失敗を繰り返して
「おいしくて、やわらかくて、長期保存ができるパン」作りのチャレンジが始まりました。最初に考えたのは、パンの真空パックでした。食品は空気に触れると、空気中の酸素によって酸化して、おいしくなくなったり、菌が増えてカビたりします。真空パックにすると、酸化を防いで保存がきくのです。焼き上がったパンをビニール袋に入れ、空気を抜いてみたら、ふわふわのパンがペチャンコになってしまいました。
「どう、パンの研究は進んでいますか」神戸から電話がかかってくるたびに、秋元さんはしぼんでいた心をふるい立たせるのでした。
ある時、「缶詰は、昔からの保存食だ。パンも缶詰にならないだろうか」パンの缶詰なんて、見たことも聞いたこともありません。でも、やってみなければできるかできないかわからないと思いました。
缶詰の機械を借りてきて、焼きたてのパンを缶に入れ、ふたをしました。一週間ほどたって開けてみると、無残なことにカビだらけになっていました。
殺菌には、いくつかの方法があります。熱殺菌、アルコール殺菌、紫外線殺菌など、普通の缶詰は、缶に詰め終わった後、レトルト殺菌と言って百度以上の熱で殺菌をしてからできあがります。
「そうだ、缶の中にパン生地を入れて、焼きながら一緒に殺菌してみよう」パン生地を缶に直接入れてオーブンでそのまま焼くことにしました。パンは缶の中できれいに焼き上がっていました。
「やった!これなら大丈夫」と思いましたが、いざ缶からパンを取り出そうとすると、今度はパンが缶にくっついて取り出せないのです。
「次は、缶とパンがくっつかないよう、缶の中にベーキングシートを入れようと考えました」秋元さんはあきらめず、パンの缶詰に使える紙を日本だけでなく、世界中で「和紙のような性質を持った、水と熱に強い紙」をさがし続けました。
よい紙が見つかりました。手に取ってさわると、うすくてシャリシャリして、見た感じはとても薄いので、水分を吸うようには見えませんが、霧吹きで水をかけてみると、スッと水がしみこんで、あっという間に紙がしわしわになります。しっとりふわふわのパンの缶詰ができたのは、この紙に出あえたおかげです。
もう一つの成功のカギは、缶詰の中に脱酸素剤を入れたことでした。脱酸素剤には特別な処理をした鉄の粉が入っています。鉄には酸素を吸う性質があり、これを入れて缶のふたを閉めると、缶の中が無酸素状態になって長期保存が可能になるのです。
何度も失敗を繰り返して、ついにパンの缶詰が完成しました。防腐剤などは一切入っていないのに、ふわふわのままで長期保存が可能になったのです。
発売したのは、一九九六年の秋。あの阪神・淡路大震災から一年半が立っていました。でも、ここに来るまで百回以上もの実験を繰り返しました。本当にできるかわからない、売れるかもわからない商品の研究に、町の小さなパン屋が力を注いだのです。
缶詰が完成した時は、「やった!」という気分でした。
秋元さんは、親父さんの考え方にも勇気づけられました。
「いつも大きなところ、高いところから物事を見なさい。困っている人のため、社会のためになるのなら、やるべきだ」と言っていたんです。発明王のエジソンは、一万回失敗して一万一回目に成功したと言われています。
「あきらめなければ、それは失敗じゃない。でも、あきらめれば失敗になってしまうのです」いろいろな壁にぶつかっても、あきらめなかったから、パンの缶詰が誕生したのです。
パンの缶詰が、大きな話題になったのは、二00四年新潟県中越地震の時でした。
このとき大きな被害を受けたのは長岡市で、那須塩原市からは直線距離で百キロメートル。以外に近い場所なので、ありったけのパンの缶詰を集めて運びました。
それでも足りなかったので、パンの缶詰を備蓄食として大量に持っている自治体に声をかけて、中越地方に直接送ってくれることになりました。
数日後、ニュースで現地の対策本部が映し出されました。そこにあったのは山のように積まれたパンの缶詰。秋元さんは、感激で胸が熱くなりました。
そこから、パン・アキモトには全国からパンの缶詰の注文が殺到しました。注文を受けても製造が間に合わず、防災グッズなのに「待ってね」というのはおかしいので、二00五年、遠く離れた沖縄にパンの缶詰工場を立ち上げました。
その後、沖縄米軍基地の認定を受けて、はじめは、基地の中で個人向けに販売していましたが、飛行場の消防隊が気に入ってくれて、軍の予算でパンの缶詰が購入された実績もできました。
数年後、アメリカでスペースシャトルにパンの缶詰を乗せることが検討された時、米軍基地での実績は「安心安全な食べ物」の裏付けとなりました。まわり道をしたように見えた時間も、結局無駄なことは何ひとつありませんでした。
3 パン屋のバトンを受けついで
空から見ると壁や国境はない
秋元パン店の創業者は親父さんで、新しいことに挑戦し続けた人だったので、二代目の秋元さんもいろいろなことを試してきました。お店でパンを売るだけではなく、車で移動販売を行ったり、スーパーマーケットの中にインストアベーカリーを開いたりしました。
すべては、お客さんへのサービスのため。秋元さんにとって、チャレンジは自然なことだったのです。
親父さんの教えのひとつは、「大局的に物事を見なさい」ということでした。多くの人は目の前のことしか見えていませんが、親父は飛行機乗りだったので、物事を高いところから見ていたのです。
人生を道に例えると、山があったり、でこぼこの歩きにくい道が続いたりします。歩いてみないとその道がよい道かどうかなんてわかりません。目の前に高い山がそびえていると、頂上が見えなくて、ちゃんと登れるか心配になるかもしれません。もし失敗をしてしまったら、谷底に突き落とされた気分になるかもしれません。もう進むのをやめたいと思うこともあるでしょう。
そんな自分を、少し高いところから眺めたら、どう見えるでしょうか。辛くてたまらない山登りの途中でも、その先に広くてながめのいい場所があると気付くかもしれません。目の前のことだけにとらわれず、高いところから俯瞰して見ることはとても大切です。
その視点は、自分の「もう無理だ」という限界を取り払ったり、楽な方へと流されていく自分をいさめてくれたりします。親父さんは、「空の上から見たら国境や壁なんてない。国境だって人間が作ったものなんだぞ」と語っていたそうです。
4 世界にパンを届ける「救缶鳥プロジェクト」
缶の賞味期限が切れるとき
パンの缶詰をおさめていたK市の市役所から電話がかかってきました。
「賞味期限が近いので、新しいパンの缶詰を買って入れ替えますよ。そのかわり、古いものは処分してもらえませんか」
秋元さんは、処分という言葉が、とてもショックだったのです。また、ある調査では、賞味期限が切れる直前の缶詰をもらっても、ほとんどの人が捨ててしまうという結果が出ています。そこで考えたのが、次のような仕組みです。
パンの缶詰の賞味期限は三年。企業や学校や自治体など、大口のお客さんの多くは、期限が切れるとまた買ってくれるリピーターです。そして、新しいパンの缶詰は少し値引きもします。お客さんのもとには備蓄食としてのパンの缶詰がつねにあり、賞味期限の近い缶詰は海外の困っている人に届けられる。
これでパンを捨てることがなくなるし、みんなが少しずつよい気持ちになれる仕組みができたのです。
秋元さんは、「みなさんのやさしさを困っている人たちに届けます。」と語りながら、協力してくれる人を増やしていきました。メッセージがあったから、多くの人の共感を集め、賛同してもらえたのだと思います。
「救缶鳥プロジェクト」の完成
非常食を備えることで、世界中の飢えで苦しんでいる人たちを救うこの活動は「救缶鳥プロジェクト」と名付けられました。缶に入ったおいしいパンが、鳥のように世界中へ飛んでいくイメージです。プロジェクトが本格的に動き出したのは、二00九年九月 「救缶鳥プロジェクト」のしくみ
家庭、学校、企業、自治体などが、備蓄食として「救缶鳥」を購入。
回収の1~2か月前に、支援活動の案内が届く。
2年後:もう一度買ってくれる人のところへ回収にいく、その時は割引して販売する。
回収した「救缶鳥」は、NGOに送られる。
NGOなどを通じて、コンテナで輸送。
世界の飢餓地域に、「救缶鳥」が届く。
これまで世界各国にはばたいて行った救缶鳥の数は約二十二万缶。今ではパン・アキモトが販売するパンの缶詰の三十パーセントが、救缶鳥として海外に届いています。
入り口から出口までしっかりみる
ゴミにならないように、缶を開けたあとも使えるものにしよう。ふたの切り口で手や口をケガしないよう、安全に工夫された缶を使い、食べた後もコップや食器として使えるようにしました。これなら口をつけても大丈夫です。
震災直後などの、食器を使えないときにも便利です。繰り返し使ってサビが出てしまった場合は、鉄のリサイクルもプログラムの中に入れています。備蓄した食料を、うっかり忘れることなく、使いきるためのリマインダーサービス。
「食べものを無駄にしない」という救缶鳥の精神が宿ったシステムです。
5 わらって楽しく仕事を続けよう
ジャムおじさんになろう
「パンの缶詰で、災害時の食の問題を解決できるようになり、その先に進んで、備蓄しながら世界の人を救う救缶鳥プロジェクトが生まれ、いろいろな人と協力しながらシステムを作ってきました。
ぼくたちは、堂々とこのシステムでビジネスをし、儲けていきたいと考えています。儲からなければ、支援の継続ができないからです。
最近、ぼくは講演に呼ばれることも多いのですが、ちゃんと言葉で伝えようと考えているし、講演料や交通費もいただくし、会場でパンの缶詰も売らせてもらいます。この商売をしっかり見せることが、ソーシャルビジネスを学んで頂くきっかけにもなると思っています」
秋元さんには、ひそかに理想としている存在がいます。やなせたかしが描いた「アンパンマン」に登場するジャムおじさんです。
アンパンマンは、困っている人や、おなかをすかせた人たちに、自分の顔をちぎって差し出します。そのアンパンマンの顔を焼き直し、
「おいしくなーれ」と言いながら、毎日心をこめてパンを作っているのがジャムおじさんです。ジャムおじさんは物知りで、科学者みたいなところがあるのも、秋元さんに似ているかもしれません。
「人間って失敗をする生きものです。でも、そこであきらめないということ。自分の夢やミッションを持っていると、そこに向かって進めるんです。ただ一直線に進めるわけではなく、何度も失敗や挫折がある。でも、またそこから学べばいいんです」
「自分って何者だろう?」と考える時間を持ってほしいし、「自分は何をして生きるのか」を見つけてほしいんです。ミッションを見つけるために自分の命を大切にしよう。ほかの人のことも大切にしよう。
日本のやさしさを、世界に届けるお手伝いが出来たらいいと思っています。収益を上げていくことも大事だけど、それだけではない。ぼくは、社会に少しお返しをできる会社だと思います。本業周辺で、「見返りを求めない社会活動」を続けることが大事だと思います。
ミッション・パッション・アクション
講演のとき、秋元さんが必ず話すことがあります。それは、「ミッション・パッション・アクション」という言葉です。
ミッションとは、自分の使命や、果たすべき仕事。
パッションとは、情熱や、熱中するということ。
アクションとは、行動や活動すること。
「この三つが、人を動かします。ぼくがいつも考えているのは、ミッションを明確にすること。パッションを心に持つこと。そしてどんどんアクションを起こしていくこと。面白いのは、アクションを起こせば、必ずリアクション(反応)もあることです。
応援のリアクションもあれば、反対のリアクションも、きっと出てきます。反対が強い場合には、自分たちのアクションがしぼんでしまうこともある。でも、反対意見に対して(自分たちはこうなんだ)と言えるリ・リアクション(つぎの答え)の準備をしておけばいいんです。」
そこが、つぎの行動に進んでいけるかどうかのポイントです。
また、秋元さんはアメリカで生活したときや、大学時代にアメリカ人聖教師と親しく付き合ったときには、自分の意見をはっきり言うことを教わったと言います。
「そういう環境に置かれたことで、ぼくは自分の意見を言えるようになってきた気がします。自分の頭で考えたり、意見を言ったりしていると、たくさんのアイデアがわき、新しい商品や新しいサービスが生まれてくるんですよ。
先生の言うことをよく聞く優等生でいるよりも、ときどき「ノー」と自分の考えを口にしたほうがいいよ」
自分から行動したとき、自分の意見を言えたとき、何かが少し変わります。たとえ失敗したとしても、自分で決めて動き始めることは、必ず自信につながるのだと思います。周囲からのリアクションを恐れないこと。
ベトナムにパン屋を開く
二0一五年、パン・アキモトはベトナムの中部にあるダナン市に、日本式のパン屋「ゴチパン」をオープンしました。
創業者の「パンを通して、アジアに日本の技術と文化を伝えたい」「戦争経験者として償いをしたい」という二つの夢が、長い年月を経て現実のものとなったのです。
ベトナムでは、現地の人との連携も着々と進み、ベーカーリーレストランを展開したいという新たな夢も生まれたようです。あとは、若い人たちが頑張ってくれるでしょう。夢を持ち、具体的に描けば、一つひとつ実現していく。秋元さんの哲学は、ベトナムでも広がりつつあります。
「海外での仕事は、将来のある息子たちが責任を持って進めています。アメリカは長男、ベトナムは次男。多少時間がかかっても、すぐに上手くいかなくても、模索しながらやってくれるでしょう」夢に向かってまた一歩、踏み出しました。
「ぼくは、片目で地元を見て、片目で世界を見据える企業になりたいと、社員にも言っています。夢は誰でも描くことができます。でも、実現するためには、なるべく具体的に描かなきゃいけない。そのためには期限を決めることも大切です。夢の内容を紙に書いて財布の中にでも入れておけば、開くたびに目に入って頑張ろうという気になる。夢というのは、ぼんやり描いているだけでは、(まあいいか)で終わってしまうんですよ」
そこで秋元さんは、毎年一月になると、社員全員約六十人に今年の夢を書いてもらい、預かるようにしています。
「縁があってここで一緒に働いているのだから、職人にはいいパンを作ってほしいし、店員にはいいサービスをしてほしい。お金を稼ぐだけではなく、プラスアルファの夢が誰にでもあるはずだから、それに向かっていってほしい。多少つらいことがあっても、夢があれば、頑張れると思うんです」
創業者の親父さんは「日本の文化をアジアに伝えたい」「アジアの人たちに償いをしたい」という夢を持ち、那須にパン屋を作りました。秋元さんはその夢を引き継ぎ、アジアだけでなく世界各地にパンを届けるようになりました。
小さな夢も、大きな夢も、具体的に描いて行動する。パン工場の職人さんや、きらむぎで働く店員さんの明るい笑顔を見ていると、夢を力に変えていく秋元さんの姿が、社員一人ひとりにも大きな影響を与えていることを感じます。
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